2017/09/15

船で行く魏志倭人伝の旅 器展

 
 
 
テレビを見ていて、本を読んでいて、人の話を聞いていて、
 
意外と掴みにくいのが距離感です。
 
おしどり夫婦と取り上げられていたらそうでもなかったり、
離れていると思っていた場所と場所が意外と近かったり、
広いと聞いていた場所がイメージしていたよりさらに広かったり。
 
 
 
 
 
 
 
予測のつかない速度ですごい距離を引き返してきたり、
人たらしと言われ心理的な距離も縮める術を心得ていた秀吉のいちファンが思うに、
 
距離の正確な把握がそのひとの可能性。
 
自分のものさしの無い人、目盛りが偏っていて測ろうとしない人って、
信頼関係のない人にただただ馴れ馴れしくしたり、必要な条件を無視して精神論で突っ切ろうとしたり、微妙な距離感を持続できずにすぐ破綻させる。
 
 
 
 
 
 
 
 
そういう距離を思いがけず発見したり、意外なホントの距離に驚いたり、
この距離を超えたんだー!っていう工夫に
目を見張ったりするアトラクションが私にとっての旅です。


今回の北九州への旅は、

歴史上有数の距離的難問でもある魏志倭人伝の記述に沿って
景色や遺跡や博物館を巡り、秀吉ゆかりの城跡も巡りってきました。
 
 
 
 
 
壱岐の北岸の上にある勝本城跡。
 
秀吉が朝鮮出兵時に補給基地として建てたと言われる城跡です。
 
 
 
 流水柄と藁灰釉のゆのみ        MAP
 
 
長い坂道の上、城門のあたりには
見事なクランクがあり、
やはり臨戦態勢の城とうれしくなります。
 
 
 
 
壱岐島の南側、広い平野部にある原の辻遺跡(弥生時代)。
 

 
 
ここ原の辻遺跡は船着場跡が発掘されたことでも有名で、
湾から川を一キロほど遡上して、ここにあった一支国に荷物と人が到着。
 
 


魏志倭人伝には
 
「(一支国には)三千ばかりの家があり、田畑が少し、農耕だけでは食うに足らず、南や北に海を渡って穀物を買い入れている。」
 
とあります。


刷毛目とコバルトの茶碗   MAP

 
玄海灘を渡るときややシケていてまあ船が揺れたのですが…
弥生時代にここで交易していた人々はずっと小さな船で航海していました。
 
今日も風が強く、あの高い波を漕いで渡るなんてシンジラレナイ…
 
 
 


 
縄文後期の稲作遺構で有名な菜畑遺跡のある唐津から、
 
沿岸沿いを魏志倭人伝の伊都国(今の糸島市)に向かいます。
 


 
 
 
実は邪馬台国がどこにあったかにはあまり興味がないのです…
 
たとえ新たに吉野ヶ里より大きくて纒向みたいに
全国まとめてましたな弥生時代後期の遺跡が発見されたとして、
卑弥呼がもらった金印か魏の封泥など
ドンピシャな証拠が複数でないとそうだと言えませんし、
 
都市の下だったりしたらどうしようもありません…
 
 
 
 
 
 
どうやら弥生後期に
民族色の強い銅鐸や鳥装の祭りが一斉に排され、
玉・剣・鏡を使って太陽や岩を祀る今につながる神事に変わったこと、
 
その象徴である卑弥呼(明らかに日巫女)が治めた国
 
邪馬台国(ヤマト?)につながるザ・オリジン・オブ・ニッポンの姿やそうなった理由に興味津々。
 
中国の魏志倭人伝と発掘成果のおかげで、ここではその姿をイメージしながら旅ができます。
 
 
 
青釉のおおきなマグ   MAP


糸島では卑弥呼より前の時代ですが、
 
玉・剣・鏡に柱跡(日本の神様は一柱、二柱と数えます)に太陽や産道信仰が伺える
 
 
 
 
 
 
 
 
とても身分の高い女性の墓を見ることができました。





 
 
 
魏志倭人伝によると、「(伊都国には)1000余戸の家がある。世々に王があるも、みな女王國に統べて属する。帯方郡(魏国の一部)の使者が往来して、ここに常にとどまる場所である。
 
平野部の遺跡からは帯方郡の特徴を持つ陶片や硯(日本では文字の無い時代)が出土していて、邪馬台国はここに一大卒(軍隊)を置き、北九州の抑えとしていたとも書かれています。 
 
 



良い景色を求めて海沿いの道を東へ。
 
箱島様というモンサンミッシェルな海の神様が祀られたほこらを見つけたり、



灰釉のパステル茶碗   MAP

 
点在する遺跡や日帰り温泉、
 
 
 

 
 
海の美味しいものを訪ねながら、



 
 
 
「漢委奴国王印」金印が発見されたと言われる志賀島へ。
 
 
 
 
ベージュと青の流水柄 ゆのみ    MAP
 
 
玄界灘へまっすぐ続く参道の宮地嶽神社。
 
江戸時代の地震がきっかけで境内で発見された宮地嶽古墳。
 
あまりに厳粛な空気から内部に不動尊が祀られていて、
玄室の前でお参りできました。

 
 
 

 
 
 
宗像大社と大島の中津宮、
 
海の正倉院沖ノ島を結ぶ神湊(こうのみなと)には数日滞在。
 
 
 



この辺りは古代豪族・海人族 宗像氏の古墳の密集地でもあります。

現在 宗像大社 宝物館にある国宝の数々を朝廷のはからいで沖ノ島の岩々に供えていたのは彼らですが、遣唐使の廃止でぱったり供物が見られなくなったあたり、

古代、危険な航海など国家的難事のカミダノミにかける本気度というか執念を感じて汗💦

魏志倭人伝にも持衰(じさい)というとんでもないカミダノミ航海術を倭人がやってたとありますが… 
 



凹みのあるベージュのココットゆのみ      MAP

 
 
岬の近くにあるフェリー乗り場から
 
中津宮のある大島へ。
 
 

 
 
 
女人禁制で神職とお祭りの日しか上陸出来ない沖ノ島には
 
ここ大島の北岸からお参りできることになっています。
 
 



みっつのまる 茶碗     MAP
 
 
他にも佐賀の吉野ヶ里遺跡や太宰府天満宮と水城跡、
九州国立博物館の洞窟壁画 ラスコー展、名護屋城や大野城跡、
山道を走って有名な王塚装飾古墳まで足を伸ばし、
 
夕方に福岡・新門司港でマイカーとロードバイクを積み込みフェリーに乗船。
 
 
 
 
 
 
邪馬台国がどこにあったかはともかく、
 
その重要拠点があった近畿と九州を結んでさかんに人やモノが運ばれた瀬戸内海。



 
 
 
実はこの旅で邪馬台国東遷説ってアリだなーと思ったり…
 
(九州発祥の邪馬台国が東国と戦争するうち岡山〜近畿に拠点をつくり、
最終的に奈良に遷都したという説)
 
 

 
 
 
瀬戸内海は海のハイウェイ。
 
玄界灘と比べるととっても穏やかで、大型フェリーはぜんぜん揺れず、
露天風呂を楽しんで、食堂で美味しいお刺身を食べて、
狭いビジホな個室で早めに就寝。
 
 

 
 
 
ただいま大阪!
 
朝6時、10日ぶりに泉大津港に帰って来ました。