近江路二日目は自転車を借りて古戦場めぐり。
初めて古戦場を訪れた大山崎で気づいたのですが、
車だと地形や陣地の位置関係が分かりづらい…
かといって足軽さんの体力もないので、
電動自転車を現地で借りるのがベストチョイスとなります。
昨日は秀吉が本陣を置いた門前宿場町・木ノ本に一泊、
旅の目的を告げると、訪れるべきポイントをマップにしてくれた
観光案内所のおねえさんありがとうございました。
奥琵琶湖を一望できる賤ヶ岳頂上。
刷毛目の変形ゆのみ(藁灰釉) |
いにしえの惣村 菅浦や聖地 竹生島を一望できる絶景はすばらしいのですが、
目的の戦国史絶景は反対側。
羽柴秀吉と柴田勝家。
本能寺の変の翌年、天正11年(1583)一本の隘路の近江側と敦賀側に
合わせて13の砦と山城を築き一か月半にわたってにらみ合った両軍。
長い膠着は突然の奇襲によって破られました。
ここ賤ヶ岳砦は秀吉勢側、余呉湖を囲む尾根と隘路の要所に8つの砦、
その先のかすむ山々の尾根に柴田側の砦が5つ、ずっと先にお市の方と三姉妹が待つ北庄城がありました。
思っていたよりお互いの砦の距離が近い!
鉄壁の防御の秀吉勢の砦に襲い掛かった盛政の外側の尾根づたいに湖畔に抜けるルート、秀吉がこの年の一月に作らせた隘路の二重柵の場所、万一の想定敗走ルート上にある小谷城(当時破城済)の山崎丸を秀吉が使えるよう改修させていたこと、この賤ヶ岳の戦いの10年前の信長の小谷攻めの際の焼働きの範囲の広さをを上からわかりやすく説明してくださったボランティアガイドの平崎さん↓
「賤ヶ岳の戦いはいわゆる要塞戦」
という語り口は戦史好きには胸熱でした。
おうたんメール受け取ってます☆ありがとうございました。
木ノ本側へロープウェイで降りて、今度は下から余呉湖畔を目指します。
雨が降ってきたのでレインコートに着替えて、
北国街道と重なる現国道365号を北上。
大岩山砦と岩崎山砦のある尾根ぞいに余呉湖に出ました。
余呉湖を一周する道路は近年の整備で、それ以前は
木々の生い茂る岸辺に船でしか行けない稲田が点在していたそうです。
天正11年4月21日早朝、夜のうちに山中を移動し湖畔に降りた佐久間隊は深い繁みと稲田をつたい、
このあたりを通り急な崖をかけ登って大岩山砦を急襲、
秀吉方 中川清秀公を見事打ち取りました。
流水柄の茶碗(藁灰釉) |
ところが思わぬ奇襲返し。
岐阜県の大垣城を攻めていた秀吉と本隊が
わずか五時間で木ノ元まで戻ってきて
その日の夜に大岩山砦にいた佐久間隊に総攻撃をかけます。
秀吉の大垣城攻めはあえて背中を見せて
勇将の猪突を誘発するための罠だったともいわれます。
これはいけないと撤退する佐久間隊のうしろから襲い掛かった秀吉隊、
このときに活躍したのが七本槍と呼ばれた秀吉勢の武将たちです。
今度は柴田勢の敗走ルートをたどります。
流水と雲柄のスープカップ(ベージュ) |
柴田勢本隊は佐久間隊の快進撃に合わせて進撃、
隘路の中央付近に陣を張っていたところ、
佐久間隊壊滅の報が届きます。
逃げる佐久間隊、追う七本槍が進んだ道をひたすら漕ぐ漕ぐ漕ぐ…
勝家の近待である武者 毛受勝助(めんじゅしょうすけ)が
勝家の影武者になって討ち死にした場所を探します。
余呉町史を編纂した白崎金三さんの著書によると、
4月21日朝、敗戦や将の討ち死にが勝家に続々伝えられ、兵たちは動揺、
4000あった兵は半減していました。
「鬼柴田」勝家はここで敗れて逃げるよりも、最後に秀吉と一線交え、
討ち死にする覚悟を決めていました。
重臣たちは
「ひとたび越前に逃れて再起を図るべし」と進言。
中でも勝助は
「上様自らの采配をもってしても、この劣勢を跳ね返すのは困難。ここで雑兵の手にかかり相はてたとあれば、それこそ末代までの恥辱。ここは敵に退路を断たれる前にご帰城あそばし、かの地にて静かに御自害なさるべきにございましょう」
と声涙にも下り、訴えました。
毛受兄弟の墓はこちらという案内は見つけたのですが、
いったりきたりしても見つからない…
雨が土砂降りになってきました。
あじさいで有名な全長寺を見つけました。
お堂は閉まっていたので、山門で雨宿り。
雲柄のマグ(藁灰釉) |
やや小降りになってきたので出発。
地図で確認すると、
あの尾根の左側、標高660mに佐久間盛政の行市山砦と
その下方に前田利家親子が詰める最前線基地の別所山砦、その奥にも砦が続き、
敗戦濃厚になる中、秀吉との対決を避けた前田勢は砦を放棄し撤退。
その尾根裾の隘路側に毛受の森があるはずです。
一度国道365号線に戻って案内に従って横道に入ると、
毛受の森の矢印と山裾につづくゆるい坂道を見つけました。
毛受勝助は勝家に
「ここはそれがし今生のご奉公納めと心得、
一人でも多くの敵を道連れにする覚悟にございますゆえ、
どうか上様の御名と馬標を、この勝助お遺しください」
と申し出ました。
なるほどここはやや高台で、山地に囲まれ袋小路。
隘路の中央、狐塚にあった本陣に殺到した秀吉勢に
金幣の馬標がよく見えたはずです。
勝助はこの上の林谷山に駆け上り馬標を立てたと伝わります。
あるじに親類縁者や家族に会わせてから自分の城で切腹させるために。
勝家役を務めた勝助とその兄・茂左衛門などと合わせて
ここで討ち死にしたのは総勢500人ほどと言われます。
雨に苔むした岩やうすい木の葉がきらきらと輝いて、
あるじが家族や重臣と酒を酌み交わしてから果てたことをここで死んだ人々に伝えたく感じ、
木の葉も掃き清められ供養の人も絶えない様子から
ご利益があると言われる観光名所より以上に
はっきりとセイクリッドを感じました。